第三章 大学時代
全ては高津寮から始まる。私は、大学の入学手続きを終えて、当時川崎の高津にあった大学の寮に入ることになった。この寮はこの世で見た最も古く汚い木造の建物であって、ピサの斜塔のように傾いており、今にも倒れそうな物件であった。倒れない様に、柱で支えてあった。部屋には、戦前の学生達が残した落書きがあったが、こういう遺物には又それなりの親近感が持てた。現在は高津寮は取り壊されて跡形も無いが、昨年伊豆で開催した高津寮の同窓会は大盛況を呈した。このホームページもそのエネルギーの余波で出来たようなものである。
１０年ほど前、高度成長を開始した初期の頃には、都市部で求人難となり、若干１６歳の中卒労働力を金の卵と称して地方からかき集めたものであった。当時、彼らを必要とした事業家達自身も必死に生きていた。農家の長男でない１６歳の少年少女達は、人を疑うことを知らず、善意だけをひたすら信じて東北や九州から都会へ送り出されたのであった。「上野はおいらの心の駅よ」という歌詩には金の卵たちの切ない情感が溢れている。彼等に比べれば１８歳の私が単身で、しかも大学進学の為に上京したという人生の始まりは明らかに恵まれていた。にもかかわらず、私は１８歳にして突然、衣食住に関する日常生活の雑事を全て自分で処理しなければならなくなった不便さに戸惑っていた。
日本社会では、２０歳を以って一応成人とし、国民として納税させ、広く権利義務を認める仕組みである。この縛りはゆるく、納税義務はなくとも自動車免許は１８歳で貰えるし、その気になれば、風俗営業も１８歳から自由にやれる。逆に、２０歳を遥かに越えても家付き娘や息子となって、何時までも親の脛をかじるとも別に罰せられることも無い。人間がいつ成人するかについては、武士の時代には１５歳で元服というのをやったし、１５でネエヤは嫁にいった時代もあり、一概には言えない。何はともあれ、私は１８歳にして親元を放れ、人生の荒波に漕ぎ出したのであった。私がどうなるとも、自分の人生の責任者は自分であったが、当時の私がそれをはっきり自覚していた訳ではない。正に古聖の謂う如く「冷暖自知せよ」であって、本当に成人（成仏）するまでには人生の試練を沢山くぐらねばならなかったのであった。
さて、当時の日本の政局や世論は米ソ両大国の谷間にあって、小船の様に右に左に大きく揺れ動いていました。大衆は概して貧しく無知で、賃上げと福祉を歌い文句にした社会党はたくさんの代議士を当選させていました。全国各地の大学においても学生の政治活動が活発であり、こちらは安保全学連の残党が自治会を独占していました。それは衆愚政治の見本でありまして、数さえ多ければなんとか政権を維持できるため、票が集められる大学の寮生やサークルを重点的標的にして勧誘し、後継活動家を作ることだけが生き残る唯一の手段であり、それだけが目的と化していました。仲間の結束を強めるためだけが目的で、大した論争もせず、スローガンの文句が違う程度でセクト化が徐々に進行して行きました。
政治の実際は数ではなく、理念の実現なので、安保騒動では衆愚は多数派を占めたけれども、少数派の愛国理念が実現して国会を乗り切りました。世論や学生は大衆そのものですから、常に現状に不満で支配体制を批判する傾向をもっているものであります。大学の自治会やサークルは批判精神の旺盛な学生達の溜まり場でありました。当然、私のような田舎者の世間知らずは、その素朴さと善良さゆえに、まず相手の言い分を理解しようとするわけですが、そこが手練手管の長けた政治ゴロの狙うツボでありまして、圧倒的な言葉数を注入することによって反論する暇を封じると、憐れ子羊はそれ以外の情報に頭が回らなくなって、簡単にたちまち洗脳され組織にオルグられてしまうことになるのであります。組織の正体がわかるまでにその組織の活動家となる仕組みになっています。そして、やっと自分の活動の立場が判明した頃は既に幹部となっているわけです。すでに手を汚してしまっているので、脱会しようとして自己批判（自己否定）するにはかなりのエネルギーが必要で、大変困難で苦しいものです。
大学に入学した頃の若者は、様々なカルト集団やマルチ商法や新興宗教団体や各種政治団体等の格好の餌食であります。本人の頭の中は受験技術でいっぱいになっていて、マインドコントロールに対して全く無防備であるからです。オームや原理運動は最悪のケースですが、似たような団体がたくさんあり、免疫力が無い以上誰もが程度の差はあれ、はしかの様に感染します。大事に至る前に正気に戻ればいいでしょう。尚、今やネット上にカルト集団やマルチ商法についてのＨＰも沢山あって、検索すれば極めて容易に情報が得られます。
各政治団体はかくして各大学に拠点を築き、資金源（自治会費および企業等からの寄付金や賛助金）と人材を確保していました。私の浅薄な脳味噌は混濁し、安易な居心地の良さ（金が使え、代表権を行使でき一般学生の上位で物が言える）に流されて妥協し、当時主流派のセクト色に染まってしまったのであります。私は子供の頃から自分勝手に生きてきたので、セクト（党派）に振り回されたり、仲間に同志呼ばわりされたりするのが嫌でしたから、自分達でヘゲモニーを握れる新しいセクトを作ることにしました。それでも、組織仲間がいると不自由でしたので、それもやめて私は一切の組織と縁を切り、無頼漢になりました。その頃、竹中労と出会い、私の迷走が本格的に始まったのでした。
当時はロシアソビエト連邦社会主義人民共和国という立派そうな国があって、世界の共産主義勢力の盟主を自認していましたし、中国では輝ける人民の星で、偉大な太陽でもあるとされた毛沢東が健在で、両国とも盛んに日本語放送等をして宣伝していたから、共産主義に関する本は大変人気があって、私達は夏になると軽井沢や野尻湖や会津にレジャーを兼ねて合宿し、ついでに経哲草稿などの読書会をやっていました。お陰でマルクス、レーニン、エンゲルス、トロツキー、スターリン、毛沢東・・・等が書いた本ばかりでなく、それを解説した本や更にその解説書を解説した本が飛ぶ様に売れたものであります。巷には怪しげな新左翼書店がたくさん出現しました。今、コンピュータの解説書が飛ぶ様に売れているようなものです。
その後、ゴルバチョフがソビエトの破産宣言をして、ベルリンの壁が歓声の中で壊されました。晩年の毛沢東の老害ぶりも紅衛兵だった少女の自叙伝「ワイルド・スワン」を読むと然もありなんと納得させられます。世界は今度はアメリカドルだけを頼りに綱渡りをする時代となりました。
一方当時は、幻の共産主義革命に踊らされて世情が不安定であったことに反して、大学内部は順調に予算も要求通り年々増加して形骸化がますます進行しつつありました。形式が重視され、人脈がものをいい、社会の役に立たなくても人がやらない研究をしていれば地位が保全され、学者は官僚化していました。大学に限らず、一般にどのような組織でも巨大化してくると腐敗するものであります。この傾向は偽物の平和の代償であって、現在全世界全分野に見られます。職業が世襲化するというのも一つの特徴です。こうした時代では学者や役者芸人は権力に阿る以外に出世するすべがないのです。役者芸人はともかく、学者は、やせたソクラテスになり、清貧に甘んじるのでなければ本物ではありません。
当時東工大には、学科に縛られず自分でカリキュラムを自由に組み、卒業に必要な単位数を満たせば卒業を認めるという制度がありました。私は、これで行こう決め、一年次早々から三年次の専門科目を取込んだ独自のカリキュラムを作り、講義を受けていたのであります。アインシュタインの相対論は、既に高校時代に読んでいたので早速三年生に混じって受講したものであります。余談ですが、民主党の管直人氏は私の一学年上で当然この単位を履修したはずですが、私は二学年先行して履修したから彼と机を並べる栄誉（？）に浴することはありませんでした。単位認定の試験さえパスすればよいというのも、一つの形式主義ではありますが、形式に血が通っていればよいと思います。
かくして、大学の講義を聞き単位を取るという作業はたやすいことでしたが、社会情勢は左右の政治勢力が拮抗して予断を許さぬ状態にありました。私は、卒業に必要な単位数を取得する一方で、他の大学や集会にいって何が正しいのか、どうすれば良いのかを模索しました。どこの大学生とて同じようなレベルでものを考えているだけでありました。私はゲストとして津田塾や東大に招かれたりしました。また、世間で流行しているアジテータの記事にも興味を持ち、いちいち検討してみました。
結局は、どこに行っても何を見ても迷うばかりで、誰も全体のことは分かっていないのでした。私は政治活動の虚しさを覚え、なにもする気になれませんでした。大学ではストライキだの、対抗してロックアウトだの混乱を極めていました。そうした中で、ある日、大学の学部長から肉筆の手紙が届いたのでした。いわく「貴君は、未だ当学科の必修科目であるＸＸ実験(１単位）を未修であるから、当学科の卒業生と認めることができない。」というものでした。私はこの教授の学科に所属しなければ卒業できないとは、この時まで知りませんでしたからせっせと卒業に十分なだけ単位数を取ったのに、どうでもいいようなつまらない実験の一単位を理由に、卒業を認めないというのなら仕方が無い。大学は混乱の最中でしたから、この手紙により大学がすっかり嫌になって、さっさと退学願いを提出しました。もっとも、私は在学中授業料免除の特待生であったから、対大学の収支は黒字でありました。
私が入学した時には中間コースという自由に科目を選んで卒業できる制度があったのでしたが、無くなったらしいのです。また、私は理工学部に入学したのですが、何時の間にか理学部と工学部に分離されていました。大学内部の制度なんていい加減なものです。一応卒業に必要な単位数より遥かに多くの単位を取得していましたので、後々成績証明書をもって卒業資格ありとして仕事をしたこともありますが、基本的に、きれいさっぱり学歴に頼らず人生を切り開くという決意をすることにより人間としての完成を達成できたのです。もし、平凡に卒業して就職していたならば沢山の義理が出来、まだ迷いの世界から抜け出せずに居たかもしれません。
（追記１）私にとって大学とは何だったのか。＜２００１．ＪＡＮ．＞
１８歳で入学するや否や大学紛争の渦中に巻き込まれ、果ては大学解体までヒートアップした学生運動の最も過激な部分にいた為に、私は自ら卒業することを潔しとはしなかったのでした。２３歳の時、本来なら大学院の２年でしたが、今後の人生を高卒の学歴のみを自己紹介で使って生きて行こうと決心したのでした。それで、選ぶ職業も３ｋになるしかなく、そのような環境に置かれた人間が課せられる命を賭けたぎりぎりの生き方を敢えて求めたのです。儚くも命を落として行く者たちがたくさんいました。老いも若きも社会の最底辺で過酷に生きている人々の中に人生の意義があるかもしれないと思ったからです。
結局２０代の若さとエネルギーによって、私はこの世の全ての不条理に挑んでいったのでした。人間行動を全面展開する自由を、思想無しに体力と人間知によって得ようとしたのです。無思想というのも一つの思想だとすれば、それは別名アナーキズムと言われている思想のブラックホールのようなものでしょう。
そして、それは遂に自壊します。普通ならそれは肉体の死滅を伴います。しかし、私は今も生きています。それは谷口雅春という人生の師に出会ったからです。彼の存在そのもの、即ち彼の布教活動には子供の頃に接していました。小学５年のころ、当時三井造船は財閥解体で本社が宇野にあり、日本一の造船会社であり、１０万トンを越えるタンカーを日本で最初に作ったり、岸総理大臣がわざわざ視察に来たりして、恐らく宇野は当時日本で最も好景気な町の一つであったと思いますが、そこには生長の家研究会（今で言う誌友会）があって、３００人ほどの熱心な信徒がいて、谷口雅春師の講演会がありました。三井造船の公会堂には３０００人以上の聴衆が詰めかけて、私も家族に連れられていき、話を聞いたことがありました。コップの水の例えで、人間の仏性、神性を説いていました。家に帰ってからも、何だか世界が愉しくなったような気分になった記憶があります。
しかし、その時は私は、谷口雅春というおっさんは面白いことを言うなあ、と思っただけでした。袖触れ合うも他生の縁といいますから、こういうことも其の２０年後に、私が全面的に谷口雅春師に出会う予兆であったと思います。