第一章 誕生から小学校卒業まで
昭和２２年、第二次世界大戦は結局アメリカ軍を中心とする連合国軍の勝利に終わり、日・独・伊の三国同盟軍は壊滅的敗戦を喫し、日本は当時マッカーサーのＧＨＱが政府に取って替わり日本全土を占領支配していました。空前の大戦争が一段落した世界各地では、戦地から生還した男達と、長らく男日照りを強いられた女達の合体により空前のベビーブームとなり、後年堺屋太一が「団塊の世代」と名付けた人口構成に巨大な世代津波が生じた。
２年前の昭和２０年、父一郎は、帝国海軍大尉から転じて技術者として舞鶴の軍工場の工場長として働いていたが、空襲により海軍工廠は壊滅し、一家は３人の子供と共に逃げるように故郷の祖父の元、宇野に帰って来た。敗戦時の一郎は軍の工場責任者として、大きな家を官舎として与えられていて、書生も置いていたという。そんなことは私の知る由もないが、後年私が東京工業大学に入学したとき、母はどうして知ったのか、当時書生をしていたという人物が其の大学の資源研にいて教授をしていたので、私はその人物に母に同行して挨拶に行ったことがある。母は再会の奇運を述べ、今度は息子がお世話になります、とか言って帰ったが、残念ながら不肖なその息子には別の運命が待っていたのであった。
３人の子供はまだ５歳(長男）と３歳(長女）と１歳(次男）であった。父は３４歳、母は２９歳であった。一郎にしてみれば、男３４歳は人生をやり直すには十分若いという自信があった。
しかし、一郎の体調がどうも思わしくなかった。さらに、その年、１歳の次男が急死した。祖父は父を励ますように、次男の死を乗り越えるためにも、子供は７つになるまでは神様が預かっているのだから神様が御用とあれば差し出すしかない。もう１人神様の御用になりそうにない子供を産めばよいと勧めた。
そして、運命の子供が生まれた。名前は寺の僧侶に頼み、「知三（ともぞう）」とした。一郎の身体は結核に蝕まれていた。知三が１歳になったとき、一郎は幼い３人の子供を残したまま、「まだ死ねない・・・」とうわ言を言いつつ他界した。
知三は期待どおり、神をも恐れぬ悪ガキであった。知三と入れ替わりに夭逝した次男は実に賢い子供であったらしい。知三は、言うことを聞かない子供であったから、しばしば死んだ子供と比較された。
敗戦国日本は世界で最も貧乏な国の一つになった。しかし、豊かな自然は戦禍を免れて残された。宇野には国敗れて山河ありというのんびりとした平和があった。知三は、父親の干渉がない自由奔放な子供時代を送った。野山には食べられる草や木の実があったし、瀬戸内海の美しく澄んだ水の中にはたくさんの魚がいた。子供たちは物資こそ無かったがはだしで野山を駆け回り、草をかじり木の実を頬張り飢えることは無かった。知三はガキ大将であり、身体も大きかった。
昭和二十八年早春、三月のある日大雪が降り、三十センチも積もったことがあった。瀬戸内ではめったに雪が降らない。しかし、その前日は大雪であった。六歳の知三は祖母に連れられて、雪晴れの朝、一キロほど離れた幼稚園へ入園手続に行った。一面の銀世界は歩くには骨が折れたが清清しい気分がした。色紙やはさみなどの遊戯セットをもらったが、あまり興味が無かった。祖母は、知三が面倒をかけるとして、その晩、担任に決まった保母の家へ自分の畑で採れた僅かばかりの野菜をもって挨拶にいった。知三は、面倒くさい事に付き合わされて困惑し、自分の入園が原因であるだけに閉口した。当然、他の園児の父兄が、夜中に保母の家を訪ねることは無かったから保母もあきれ顔で応対していたようであった。
世の中はまだ戦後の混乱が尾を引いていて騒然としていた。地方自治体には財源が無く、手っ取り早く資金を得るため公営ギャンブルを盛んに開催した。宇野でも競輪や競艇を開催した。知三の通う幼稚園でも園児たちに、「見よや、浮かぶは高辺のボート」と威勢のよいボートレースの歌を歌わせていたが、やがて教育上好ましくないということで歌わなくなった。
敗戦したと言っても、天皇・皇后両陛下の写真が依然として床の間の上に掲げられていたし、その床の間には正月には鏡餅が飾られ、盆には先祖の位牌がひな壇の最上位に置かれてその前にたくさんの供え物や提灯がおかれ、一家全員で般若心経等を唱和した。祖父は日露戦争で満州へ行った勝利経験者で、軍馬に乗った写真もあり、日本の敗戦を心底納得していない人物であった。一家を養うために、市内の金融会社で働いていたが、戦後の社会変化になじめず酒を飲みすぎて体調を崩し、知三が小学三年生の時他界してしまった。
当時、朝鮮半島ではアメリカとロシアの軍事的主導権争いが続いていた。始めはロシアが優勢であった。しかし、すでに、日本全土を占領し完全に制圧していたアメリカは日本の工場で軍需物資を作らせ朝鮮での軍事行動に転用出来たため、物質的に貧しい共産勢力を38度線以北に押し留めることに成功した。
宇野は本州と四国を結ぶ唯一の鉄道連絡船の駅としてかなり活況を呈していた。そのためにか、宇野港は朝鮮半島との交易も盛んであった。市内には、三井財閥の造船所や精錬所があって、朝鮮特需の余禄で市の財政も徐々に豊かになっていた。宇野の町には、経済の発展に伴い日本各地から多くの労働者が集まってきた。
昭和二十九年四月、知三は小学校に入学した。入学早々、知三のクラスは有吉某という女教師が担任になった。この女教師がひとまず子供等を席に着かせ、急に用をたすため自分の私物が入った鞄を教壇に置いたまま教室を出た。子供達は、わいわい騒いで教師のことなどまるで無頓着であった。その時、浮浪者の風体の男が子供達には目も呉れず一目散に教壇の鞄に駆け寄り、当然のように鞄を持ち去っていった。後日、先生は鞄を盗まれたらしいという噂が聞こえてきた。当時は、子供が白昼に泥棒を風景のように見るほど治安が悪かった。
知三が小学生であった頃、日本経済は急速な復興軌道に乗り、宇野の町も急速に長閑な村からありふれた町へと変貌を遂げ始めた。山が切り崩され塩田は埋め立てられた。そして、きれいだった山や瀬戸内の海は汚染されていった。それでも小学生の頃までは宇野は長閑で平和な村だった。空き地に旅回りの村芝居がかかる事もあった。小学三年の時、近所の家に初めてテレビが来た。知三の家は祖父が死んで貧乏であったから当時高価であったテレビは買えなかった。学校から帰ると、近所の家にあがり込んで夜遅くまで床の間に鎮座した白黒のテレビに夢中になったものである。隣組の相互扶助精神がまだ生きていた。それに、近隣の家は何代か遡れば、血縁関係で繋がっていた。
相互扶助の精神は経済発展に伴い貧富の差が大きくなるにつれ日本中から消滅していった。一地域で全員平等に仲良く平和に暮らすには全員貧しいことが必要である。特定の人に多くの収入がある場合、収入には時間と行動の制約が伴うので、隣に気配りする暇がなくなる。そして、大抵の人は公共の機関を通じて不特定の貧困者に寄付し、社会的責任を果す道を選ぶ。
小学五年の時が腕白盛りであった。夏になると遊泳禁止の岩場に泳ぎに行った。そこは、潮の流れが速く船もそこを通過するのが困難であるから「遅そ越え」と呼ばれていたのかもしれない。岩にはカキやイソギンチャクやいろいろな海草がぎっしりと着いていた。その日も手製の「ヤス」（竹竿の先に銛を取り付け、ゴムで発射する）を持ってその岩場に出かけた。知三は潜るのは得意であったが正式の泳法を知らないから遠泳は苦手であった。気づいた時は早い潮流によってすでに遥か沖合いに運ばれていた。潮の流れは急で知三はなんとか浮かんでいるのやっとであった。だんだん体力も消耗してきて海水も飲み呼吸も苦しくなった。土座衛門状態で急な潮流に身を任せながら「助けてクレー」と叫んでは海水を吸い込み咽んだ。のどが痛く苦しかった。「俺の人生も小学五年で終わりか。」と思いながら真っ青な夏の空を見ていると「きれいだなあ」とのん気なことも頭を巡ってきた。知三は、すでに水死を覚悟した。といっても、もともとこの世に未練を持つほど生きていた訳でないから、ただ「死ぬんだなあ」と思っただけである。
結局は、海岸にいた泳ぎのうまい中学生が沖で子供が流されているのを発見して、何人かがただ浮かんでいるだけの知三の手を引っ張って海岸に連れ戻してくれた。負け惜しみの強い知三は「足に藻が絡み付いて泳げなかった。」と言い訳をし、本当は自力で戻るつもりであったといってのけた。子供が海で死ぬ事故は珍しいことではなかった。学校で、死んだ子供を教訓に遊泳禁止の場所では泳がないように言って聞かせても、おとなしく言うことを聞く子供達ではなかった。ともかく、知三は命拾いをした。
死ぬ思いをすると人間は少しは反省するものである。知三もそろそろ餓鬼大将を卒業して、青臭い思春期を避けては通れない年になってきた。それに、知三の内部に眠る様々な才能も目を覚まし始めた。はったりをかます才能は早く開花した。小学一年生の時に、ナイフをちらつかせて上級生を恐れさせて同級生を苛めから救った。文学芸術方面の才能も蠢いた。知能テストも非常に高い点数（ＩＱ１６０）を示した。小学三年生の時、「赤ちゃんの手は紅葉の葉」という題で詩を作ると、当時の担任教師は感激し、教室に張り出し皆に読ませた。小学六年の授業で、子供達にクラシックのレコードを聞かせ作文させた時、知三はショパンやシューベルトの曲を聞き、その曲名にふさわしいような作文をした。担任の教師は知三に音楽の才能があるとして、無理矢理アコーデオンを持たせた。秋の運動会の行進曲をアルト・テナー・バスの三人組で演奏させられたのは今でも恥ずかしい記憶の一つである。バスを担当した知三の音はでたらめであったが全校生徒はなんとか入場行進を終えた。この時テナーを担当したＦ君は、当時上流階級意識のある家庭の子供で、ヴァイオリンを習わせられていて、完璧に演奏したが、このＦ君は後に一浪して入った東大でもオーケストラクラブで演奏していたからもともと才能があったのであろう。しかし、Ｆ君は３５歳にして、アイルランドで火山の調査ないし観光中に自動車事故により死亡してしまった。私はそれを当時の新聞記事で知った。
学校といえばテストというのが頭に浮かぶ。普通の人は、テストと聞くと頭が痛くなるらしいが、知三はそうではなかった。小学校五年と六年生の時、同じクラスに事情があって三年遅れになった北朝鮮人の子供がいた。この子供は年の割に小柄であったので到底年上には見えなかった。これがテストとなるといつも白紙であり、少しでも早く教室から出ることだけを考えていた。誰かが「出来ました。」といって、答案を提出するまでは白紙答案を提出しては教室から出してもらえないのだ。彼を早く教室から脱出させてやる為に知三は誰よりも早く答案を完成させた。そのためにはテスト問題を全部解かなければならない。もし、白紙の部分があったらまだ時間があるから考えろと言われる。早く教室から脱出したいので夢中で勉強したから集中力が着き、テスト早出しの特技が身についた。期せずして知三は学業優秀の子供になった。宇野では当時今以上に進学熱が盛んであったから、知三の青春時代はテスト、テストで明け暮れることになるのだが、知三はテストがゲームのようで面白かった。
当時は共産圏の政治プロパガンダが功を奏していたから、ロシアや中国や北朝鮮は理想的国家と思われていた。知三の仲間であった北朝鮮の子供の一家は高価な電化製品をどっさり買いこんで「夢の国」金日成の北朝鮮へ帰っていった。